邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
★1:2023/06/07(水) 17:34:37.63
>>1
邪馬台国が吉野ヶ里遺跡にあったって、隋書倭国伝にも書いてなかったっけ
二十四史記のひとつ
ゆっくり解説動画で霊夢と魔理沙が言ってた
吉野ヶ里遺跡、行ったことあるけど小さなところだったな
建物は再現した竪穴式住居ばっかだったけど、数えるくらいしか家が建ってなかった
でも、中国王朝と交易するのにベストな立地だったんだろうよ
有明海から近く?て
昔はすごかった!佐賀って卑屈やな
>佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい
現在は捨ててて🌱
>>3
数年前明治維新展を佐賀でやってたが、東京は佐賀人が作った!佐賀人は凄かった!って内容やったで
>>3
ご当地の人からしたらそういうもんか
そりゃそうだろうな
中国人からしたら自分達の目の届くところで取引できる奴が記録の対象者だろ
まだ1ミリも発掘してないから何の情報もありません。
当事者は畿内説・九州説どちらかに決まってしまわない方がいつまでも
話題にできていいんじゃないかな
決着が付くとそれ以降に連なる推定の歴史も事実になってくってことかい
吉野ヶ里が邪馬台国だったとは思わないが
邪馬台国は九州にあっただろうというのが、知性がある人達の常識だよな
筑後川河口に大和という地名がある
中国の使者がヤマトを聞き間違えて邪馬台という当て字を記録しただけ
邪馬台国を探すなら大和町だ
>>23
吉野ヶ里かどうかは知らんけど
筑後川周辺が邪馬台国っぽいな
祇園山古墳も怪しいし
>>23
山門だろ
まあ、鹿児島だと明治以降の日本は自分たち薩摩人が作ったとかアイデンティティーになってるから
佐賀県民が邪馬台国ぐらいの佐賀は凄かったぐらいは普通とゆうか
宇佐や平原古墳その他もろもろ卑弥呼の墓の候補と考えられるのは、卑弥呼をトップとした巫女集団がいたからだろう。
どのみち来週中には九州に邪馬台国ありで決着だろうね。
それから九州説の中で論争が始まるでしょうね。
カントン民がうどん語るとか馬鹿?
最近まで蕎麦ツユでうどん食ってたくせに
カントン民し○よ
>>175
武蔵野うどんと言うのがあってだな、蕎麦つゆとも違う、独特の濃い汁。
>>175
関西に独自の食文化なんかないだろ
全部パクリやん
ヤマト国=ヤマタイ国だよ
ヤマト国は奈良にあって4世紀までに九州や関東も制圧したから
日本書紀や古事記に記載が無いのは天皇の筋で何かマズイことがあったからだろうな
邪推か?
むかし隋書に邪靡堆と書いてあるからミヤビだという邪馬台国京都説というのが一瞬あったな
大和朝廷の人たちから見ても邪馬台国の話は昔の話で神話扱いだったってことになるのかね
卑弥呼をモデルにしたっぽい神功皇后なんてキャラ作っといてそいつが卑弥呼の末裔を滅ぼして「やったぜ!」とかわかってたら書かんよな
古墳時代の始まりが4世紀と考えられていた50年前なら、九州説が成り立つ余地もあった
(50年前の年代観での)3世紀前半の奈良盆地はいわゆる平和な農村で、邪馬台国を想定できる勢力があったとは考えられなかったからだ
しかし考古学が進歩して古墳時代の始まりの時期が3世紀中頃から後半と修正されて、九州説を支持する学者はほとんどいなくなった
纒向遺跡の調査が進んだことも大きい
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて連続して営まれた大集落とわかってきた
言い換えれば、邪馬台国の時代からヤマト政権の初期にかけて続いた首都の遺跡だとわかってきた
ヤマト政権に直結する纒向を中心とする勢力を邪馬台国とみなすのが最も無理のない考え方だからだ
九州説の場合は、影も形もないところから邪馬台国が存在したことを立証しなければならない
考古学がこれだけ進展して、2万戸と記載された奴国を従属させることができる大きな国が九州にないことを考古学者はわかっている
奴国や伊都国を含む広範囲に影響を与えることができる勢力は九州にないことを考古学者はわかってる
だから考古学者で九州説を支持する人はほとんどいない
こういうニュース聞いても誰がいつ埋めたのかと思ってしまって昔のように素直に感心できなくなってしまった
要するに畿内説は韓国式ウリナラ起源説という事よ
半島系固有DNAの分布
邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
>>341
九州が白いな
なぜだ?w
文献上の邪馬台国は九州かもしれないが吉野ケ里自体は精々九州北西部を支配してたかもって規模だろ
瓜田某みたいな顔でウホウホいうレベルでも交易の要衝だったせいで宗像みたいな不相応な文物が出るだけ
>>397
そういうのを見て見ぬ振りして精神論をゴリ押しするあたりが
やはりチョソの末裔なんだなと感じさせる>>341
邪馬台国東遷説というのが以前あった
古墳時代の始まりが4世紀と考えられていた頃の遺物
邪馬台国は「ヤマト」と読める
九州説ではそのヤマトが九州にも畿内にもあったと主張せざるを得ないので、遷都したという仮説を作った
しかし古墳時代の始まりの時期が3世紀中頃か後半と修正されて、東遷説は完全に否定された
修学旅行で行ったことあるけど吉野ヶ里って周り何にもないとこなのにまだ発掘調査してんだな
畿内説の人は、魏志倭人伝でシナ人が邪馬臺國に行ったのが一回だと思ってるの??馬鹿じゃね?
重要な観光資源になってるんで九州畿内説どっちも引けない
西九州自動車道の福岡西料金所(拾六町IC)付近は山と山の間を抜ける
峠のようになってて、いかにも昔の関所があったような地形なんだよね。
その西側は伊都国に否定される糸島市があって常駐している使者を
その関で止めてる感じ。ちなみに西側には後世の「山門(ヤマト)庄」が
あり、少し海側には「元寇防塁」もある。山門庄付近に兵を込めておけば
奴国も牽制できて一石二鳥。
来週中に吉野ヶ里が邪馬台国の1画だと決定しても
畿内は権威を持って拒否をしたらいいやん。桜井市のひみこちゃんがあまりにも可哀想だからさ。
邪馬台国論争には直接関係ないけど、呼子が出て来たので昔仕事で一時住んでたことがあったので一言…
呼子に住む前は大きい船もない時代に中国⇔日本の行き来なんかよく出来たなあと思っていたけど
いざ住んでみたら晴れてよく澄んだ日は呼子から壱岐はほんの目と鼻の先に見えるんだよな
家や何かの煙、自動車?の反射光もはっきりくっきり見えるくらい
アレみたら古代の人も行ってみたいと思うのも無理ないなと
本土から壱岐、壱岐から対馬、対馬から大陸も同じような好奇心持った人がたくさん居ても当たり前だろうなと思った
あの当時の吉野ヶ里は目の前が海だったと言われている
畿内説として、吉野ヶ里遺跡って何なの?